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土佐の長宗我部元親、他國侵攻の契機となった事件 < 島弥九郎事件 / 徳島県海陽町 >

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徳島県南部、那佐湾(なさわん)
高知県の県境とも近いこの付近は 太平洋に面し、時には荒々しい波が押し寄せる海岸が特徴の一つですが、陸地に囲まれた那佐湾は 穏やかな海が広がっています。

群雄割拠の戦国時代、嵐を避けてこの湾に逃げ込み 非業の死を遂げた武将がいました。

特徴的な地形の那佐湾

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那佐湾は一見すると対岸の陸地が島のように見えますが、「湾」と付いている通り 湾の奥で海が終わる、奥まった海域。
台風の時など、外洋の荒波を避けて魚たちが避難してくる場所でもあります。

嵐で不時着...のはずが

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島弥九郎事件跡(しまやくろうじけんあと / 徳島県海陽町)

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土佐一国のみならず、その後四国全体を平定することになる戦国大名・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)
その末弟に島弥九郎(しまやくろう)という人物がいた。武勇に優れ 異母兄である元親の信頼が厚かったが、身体が弱く この時は療養のため有馬温泉に向かっていた。その道中に海路で嵐に遭い、波静かな那佐湾へ家臣と共に停泊することになった。

この場所は土佐の隣国である阿波國・海部氏の領地だったが、安芸国虎(あきくにとら)を破って土佐東部を平定した長宗我部元親の噂は伝わっており、いつ元親が侵攻してもおかしくない緊迫した状況に置かれていた。

その折に 嵐を受けて不時着した弥九郎であったが、海部(かいふ)方では これを元親の敵襲と誤認。停泊していた弥九郎と家臣団を襲い これを討った。

このことはすぐさま元親の耳に入り、弟を弔う為兵を挙げ 海部城を攻略した。

阿波國侵攻の契機

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那佐湾の奥を眺めたところ、二つの小山が浮かぶように並んでいます。二子島(ふたごじま)と呼ばれるこの島で、追い詰められた弥九郎らが最期を迎えたと伝わる。
後にその霊を慰めるために 村人たちによって小塚が築かれた。

一連の話を聞くと 戦国大名の兄弟愛と取れるエピソードになっているが、時代が時代だけに病弱の弟をおとりに出して 阿波侵攻の口実作りを行った、挑発説も存在する。

真相はともあれ、結果的にこの事件を受けて 長宗我部元親は弟の弔い合戦の名目で阿波國へ侵攻。各地で激戦の末、阿波國を手中に収めた。

現在も続く長宗我部家

一時は阿波のみならず 讃岐・伊予も平定した長宗我部元親だったが、豊臣政権後は 長男である長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)の死。その後を継いだ四男 長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、関ケ原の戦い、大坂冬の陣・夏の陣に豊臣方で参戦したため、合戦後は捕らえられて処刑。盛親の子らも全て処刑されたため、長宗我部家嫡流は断絶した。

島弥九郎には子がおり、大坂夏の陣後に土佐藩での入牢を経て 下士として取り立てられた。長宗我部姓こそ名乗ることは許されなかったが、島氏は歴代土佐藩に仕え 明治維新後に明治天皇によって複姓が認められ、宗家が途絶えていた長宗我部家の家督を継いだ。

現在も続く長宗我部家の源流は、当地で討たれた島弥九郎の末裔となっている。

島弥九郎事件跡

< 自家用車 >
高松駅から 約2時間50分、149km
徳島阿波おどり空港から 約2時間10分、90km
< 公共交通機関 >
JR牟岐線・阿佐海岸鉄道 海部駅下車、徒歩約20分

※ 主な地点からの最速・最短距離

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この記事を書いた人

野瀬 章史
野瀬 章史/ゲストハウスそらうみ 四国八十八ヶ所霊場会公認先達 法名・照山の僧籍

四国高松でゲストハウスそらうみを運営する傍ら、四国八十八ヶ所霊場会公認先達として、お遍路さんの案内を務める。法名・照山(しょうざん)の僧籍も持つ。趣味はバイクツーリング、カヌー、登山、鉄道、料理など。日本の全離島・全地点を隅々まで回るべく、愛犬しょうとの日本一周旅の途上。