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国の将来を憂い殉じた二十三名の志士たちの墓所 < 二十三士墓所・福田寺 / 高知県田野町 >

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現在、四国で一番面積の小さな自治体・高知県田野町。
第27代内閣総理大臣・濱口雄幸首相ゆかりの地であり、それよりもう少し時代を遡った幕末には、国の将来を憂い 行動を起こした若者たちの悲劇の地となりました。

二十三士公園

と名付けられたこの場所は そんな悲しい歴史が秘められています。

野根山二十三士

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福田寺(ふくでんじ / 高知県田野町)

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 元治元年(1864) 9月5日
奈半利川の河原(現 二十三士公園)で、囚われの身であった二十三名の志士たちが斬首される事件が発生した。

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この時代、藩政を掌握していた前藩主・山内容堂(やまうちようどう)は、政敵である土佐勤王党絡みの動きを見逃さず、大弾圧に乗り出していた。
リーダーである武市瑞山(たけちずいざん)は投獄されていたが、その釈放を求めて立ち上がったのが 清岡道之助(きよおかみちのすけ)を首領とする 二十三名の志士たち。 野根山街道の岩佐番所で屯集した。

その動きに対して容堂公は藩兵800人を派遣して鎮圧に乗り出す。

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清岡ら二十三士はその動きに対して、戦火を交えることなく 野根山街道を越えて 阿波國に逃れたが、この時代の土佐・阿波は 双方の領地に逃げ込んだ罪人を引き渡す取り決めがあり、二十三士たちも 例外なく阿波國領内で捕らえられた。

一行は再び野根山街道を超えて 土佐國へ連行。田野奉行所に二日間投獄された後、一切の取り調べも行われないまま 奈半利川の河原にて 全員が斬首された。

この時代、取り調べが行われず ましてや斬首が行われるのは(切腹はある程度囚人の人権が考慮された刑)、極刑に等しい処分だった。

二十三士の墓所がある福田寺

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事件後、清岡道之助ら二十三士の遺体は 道之助の遺言により、妻・静の手によって 清岡家の菩提寺である田野町の福田寺(ふくでんじ)境内に埋葬された。

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福田寺の二十三士墓所前には 志士たちの名簿が掲げられている。

いずれも10代から40代の、土佐國安芸郡(現 高知県東部)出身の若者たち。

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最年少は、

檜垣繁太郎

木下慎之助

の16歳。

国の行く末を憂い 行動を起こした若者たちが、この地で静かに眠っています。

高知県でただ一人・先生と称される人物

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福田寺本堂前にある 武市半平太(瑞山)先生の像。
幕末の土佐は 数多くの偉人・有力者を輩出したが、 "先生" と称されるのは、武市瑞山先生 ただ一人。それだけ 民衆や同士たちから支持を集める、大きな影響力を持った人物であったことがわかる。

実際、武市瑞山先生が切腹の刑に処せられた後は、土佐勤王党は 壊滅に追い込まれた。

小さな像の下には 瑞山先生が獄中で詠んだ詩が添えられている。

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花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可恥 只有赤心明

花(はな)は 清香(せいこう)に依(よ)って 愛(あい)せられ
人(ひと)は 仁義(じんぎ)を以(も)って 栄(さか)ゆ
幽囚(ゆうしゅう) 何(なん)ぞ恥(は)ずべけんや
只(ただ) 赤心(せきしん)の 明(あき)らかなる 有(あ)り

意味は、

花は 清らかな香りを出すことによって愛され、
人は仁義(道徳)を重んじることによって 栄える。
今 自分は囚われの身であるが、恥じることは何も無い。
なぜなら 自分が行った行動は、嘘偽りの無い真心から起こしたことが 明らかだからである。

福田寺

< 自家用車 >
高松駅から 約2時間40分、165km
高知龍馬空港から 約1時間、40km
< 公共交通機関 >
土佐くろしお鉄道 田野駅下車 徒歩約10分、750m

※ 主な地点からの最速・最短距離

この記事を書いた人

野瀬 章史
野瀬 章史/ゲストハウスそらうみ 四国八十八ヶ所霊場会公認先達 法名・照山の僧籍

四国高松でゲストハウスそらうみを運営する傍ら、四国八十八ヶ所霊場会公認先達として、お遍路さんの案内を務める。法名・照山(しょうざん)の僧籍も持つ。趣味はバイクツーリング、カヌー、登山、鉄道、料理など。日本の全離島・全地点を隅々まで回るべく、愛犬しょうとの日本一周旅の途上。